“みみだけ”の話
誰にも理解されなくても、自分にとっては大事なもの。
誰しもそんな物があるかと思う。
最近、ブログを書くにあたって昔を振り返る機会があり、ふと思い出したので書き残してみる。
私にとってのそれは“みみだけ”だった。
“みみだけ”と言うのは固有名詞であり、幼少期に私が大事にしていたぬいぐるみの名前である。
なぜそんな突拍子もない名前になったのか。
“みみだけ”はうさぎのぬいぐるみで、当時はそんなおかしな名前ではなかった。
私はそのうさぎのぬいぐるみが大好きで常に肌身離さず持ち歩いていたそうだ。
50cmはあっただろう。
出掛けるのも寝るのも一緒。
常に一緒なので、だんだんと薄汚れてくるが、絶対に離さないため、洗うこともできない。
家の中だけならまだしも、ボロボロの薄汚れた、わりと大きめのうさぎのぬいぐるみを買い物など外出先に連れて行くのがTPO的にも限界を迎えた頃…。
母が考えた苦肉の策。
うさぎのぬいぐるみの比較的キレイだった片耳のみを残し、それをうさぎのぬいぐるみの代替とする。
母が耳を切り、そこにマジックで顔を書いた。
既にそれはもううさぎの姿を成していない。
そう。本当に耳だけなのだ。
“みみだけ”爆誕の瞬間である。
12~13cm程の薄汚れた、ふわふわではなく所々ガビガビした物体に黒のマジックで眉毛と目と鼻と口が書いてある。
なんということでしょう。
匠の手によってうさぎのぬいぐるみから耳だけに形を変えたそれは、リサイズされたことにより、持ち運びも便利で、ポケットにも入る。
だれがそんな安易な名前をつけたのか定かではないが、私は“みみだけ”がうさぎだった頃の記憶はなく、私の中で“みみだけ”は“みみだけ”として存在していた。
母がなぜそんな奇策に出たかと言うと……。
母は以前にも経験があったのだ。
3歳上の兄の“それ”は“キューちゃん”だった。
キューちゃんはシングルサイズの赤い毛布だ。
もれなく兄もキューちゃんを連れ歩いていた。
連れて歩くにはウサギのぬいぐるみより、一層不便だ。
キューちゃんはだんだんとリサイズされていった。
なんということでしょう。
匠の手によって毛布からハンカチへと形を変えたそれは(ry……
私の“みみだけ”への執着は相当なもので、出掛けた先に忘れてくれば、夜も眠れず、母は“みみだけ”を取りに行ってくれた。
とにかく“みみだけ”があれば“安心安全”がそこにある。
そんなに執着していた“みみだけ”との別れを私は記憶していない。
だんだんと必要としなくなっていったのか、それとも離れざるを得ない状況になったのか。
どんな別れだったのかはわからないがそこに心の成長があったのは確かだろう。
兄のキューちゃんもいつの間にか見なくなっていた。
成長し“みみだけ”が必要でなくなったのだろうが、今でもそれに変わるようなものがあれば何か違っただろうか。
しかし今でも私がカバンの中に“みみだけ”を携えていたならばそれはちょっとホラーにもなり兼ねない。
我が子は愛おしく大事だが、それだけではなく、時には腹も立つし、時に私を困らせる。
ペットは世話がいるし責任が伴う。
ただただいつも近くに存在し、絶対的に私の味方であり、無害でそっと寄り添ってくれる。
そんな在りし日の私にとっての“みみだけ”のような、兄にとっての“キューちゃん”のような、そんな存在が各々にとってあるなれば、心の中にでも持ち合わせていられるならば、世界はもっと平和で暖かく満たされたものになるのではないだろうか。